痛みの記憶/記憶の痛み

熊谷晋一郎、大沢美幸 痛みの記憶/記憶の痛み 現代思想 2011;39(11):38-55

  • 最近の痛みの研究の現場では、おそらく過去の痛みの記憶が、神経の中に記憶、痕跡として残ってしまっている、それが過去の記憶として成仏せずに、そのつどフラッシュバックのように現在の記憶として思い出されているという状態ではないか、ということがわかるようになってきました Apkarian 2009
  • 要するに原因のない痛みとは、「痛みの記憶」なのではないだろうかということが言われるようになってきた
  • 物語化・意味付けできるからだの感覚は痛くないことが多い。ところが「この痛みはなんなのだろう」とまったく意味付けできないときに、その感覚はいつまでも痛み続ける。どうもその物語化・意味化との関係でこの慢性疼痛をとらえる必要がありそうだということまでは臨床の現場で分かってきました。
  • 慢性疼痛のようにどこを診ても、原因もわからず、治らない傷がある。そのときに傷を癒す一つの方法として、−精神分析がまさにその典型ですがー、それを意味づけ、物語化を行う方法があるのです。「何故、あなたがこんな痛みを抱えているのか」ということに対して、「幼児期にこんな体験があり、このような不遇なことがあったから、こうなったんだ」と一つの物語として描けると、痛みが解消する。これが、精神分析の臨床がやってきたことです。
  • 慢性疼痛の治療のコンセプトとして、傷を癒すといくよりは、さらなる傷を増やすほうにその人を仕向ける傾向があることです。それは認知行動療法と言われる治療法なのですが、、、
  • 新たに「えいやっ」と動きだして摂取した情報群が、からだの中で意味ずけのネットワークを作り、身体図式が受傷後の肉体の変化を組み込んだものへと更新される。つまり動き出すことで痛みが消えるという傾向です。
  • 痛みというのが、本人のからだだけでなく、少なからず周囲の人間のあり方にまで影響を及ぼすということはおそらく間違いないと思います。
  • 慢性疼痛研究のなかでは2つの種類のサポートの仕方があると言われています。
    • 「痛み随伴性サポート pain-contingent support」 痛んでいる相手に共感して痛みを取り除いてあげようという形、痛みに振り回された形でのサポート
    • 「社会的サポート general social support」 痛みはさておき、それ以外の部分、たとえば社会復帰のために手立てを講じるとか、からだが不自由であれば介助するとか、痛みとは関係のないところでサポートしていく
    • 痛み随伴性サポートは痛みをかえって悪くすることがわかってきている
  • 例えば自分が痛みがあるというとき、そういう痛みをわかってもらいたいという気持ちが一方にはあると同時に、あまり簡単にわかられてしまうと、むしろ空々しいものを感じるということがありますね
  • 痛みをあえて放置することで、他人からは理解したり感情移入したりできないものとしての中核的な痛みへの「真の共感」が形成されているとも言えるわけです。逆に、いちいち、痛みに対して、わかったふうの中途半端な共感によってサポートするやり方は、痛みへの無理解をこそむしろ示している
  • 破局化思考
    • 「どうせ俺の痛みなんかだれもわかってくれるもんじゃないんだ」、そして「この痛みに対して自分自身は何も手立てをとれないんだ」と信じこんでいる状態、さらに「この痛みがある限り、自分は幸福になれないんだ」というふうに思い込んでいる状態
  • 例えば急性疼痛だと信じこんで、ドクターショッピングをしている患者さんにじっくり時間をかけて慢性疼痛の講義をすると、結構痛みがとれたりすることがあります。つまり、「ああ、慢性疼痛という物語があったか」ということで痛みが薄らぐ
  • 物語化できずに痛み続けてしまうということもあるように思います。
  • 例えば熊谷さんが医師として患者さんに「慢性疼痛というものがあってね。。。。」と説明すると、患者さんは「ああ、そういうものがあったのですか」と癒される。その人はそこで知識を獲得したと思っているのだけれど、その知識を獲得する前提条件として、「この先生は信頼できる」と感じていたことが重要なのです。そう感じた時、その知識ははじめて真理となる
  • 新米の医者は説明すれば患者は楽になるのではないかとおもって、一生懸命意味づけしよう、物語化しようとするのですが、そうしているうちはあまりよくならくて、何かわけのわからないカリスマ医師が出てくると、何もしていないのに治ってしまったりとか、そういうことはよくあります。
  • 「single event learning」という言い方をするのですが、なにか痛みを感じた時の学習や記憶は、一撃で一生分持つような記憶になります。しかし、幸福な記憶、良かった記憶は何回も繰り返し経験しないとなかなか定着しないし、痕跡として残らない
  • 記憶されるということと物語ということは深く結びついています。つまり物語化されないと記憶にならない。