- 考察
- Freud
- 痛みを転換症状の一つとみなし、不快感情は抑圧過程を通して身体痛に転換されうるとか、痛みにはしばしば象徴的意味があるといった積極的見解を述べている
- 「悲哀とメランコリー」 痛みと悲哀を“対象と分離してしまったことへの感情反応”と述べ、“対象を失うおそれへの反応”とみなした不安と区別した。
- 「制止、症状、不安」 精神痛においては対象への充当が障害されるが、身体痛では痛んでいる部位への自己愛的充当が障害されていると説明している
- Schilder Schmerzasymboli 痛覚失認 患者は痛み刺激を認識しているが、その有害刺激に対して的確な回避反応をとることができなかった 患者は痛み感覚を自分の身体像に結合できなかった
- 痛みの精神病理学的研究は、そのほとんどが攻撃性の無意識的防衛ということに結論付けており、痛みにおける罪業感、遺恨、敵意などの象徴的意義を強調している
- Szasz 痛みが象徴として果たす役割
- 第一段階 身体が傷ついている兆しを知らせ、更にそれ以上の傷を受けることを回避するための信号として働く
- 第二段階 他者の助けを求めるための伝達手段となる
- 第三段階 この伝達の色合いがますます強く複雑となり、ここでの痛みは対人関係のなかで本人の欲求を満たす補強物となったり、さまざまの葛藤状況を調整する繰りの手段となる
- 慢性に持続する心因痛では第三の手段が非常に色濃くなっている
- 慢性の頑固で難治な痛みは、それを訴える人が病人としての役割につくことを望んでいる兆候であり、またそのことの確証になっている
- すなわち、健康人が職業や社会的地位により、その人の同一性と社会的役割を証明しようとするのと同じく、painful personは彼の痛みと苦痛によって、その同一性と社会的役割を証明しようとしているわけである。
- Engel pain-prone patient
- 第一に彼らの性格傾向として痛み体験により和らげられる過度の罪業感があり、それらは彼らが自ら進んで不幸な状況に身を投じ、むしろ周囲の状況が最悪となり深刻となったときにしばしば痛みから解放されていること。このような自己懲罰的傾向は、医療上においても多数の外科的処置や痛み検査を受けることで満足され、彼らはその上さらに痛み強い痛みを課せられることを望む傾向があること
- 第二に彼らの生活歴をみると、幼少期に両親からしばしば虐待をうけて育っているが、親は一旦罰を下した後では逆に激しい後悔から過大な代償をなすために、痛みと苦痛が愛を得るための手段であると考えてしまうこと
- 第三に痛みの発症した状況をみると、対象に対して強い敵意や怒りに感情を抱いたり、禁じられた性的欲求を自分が意識したときに生じる罪の意識が痛みとして経験されやすいこと
- 第四は痛む部位の選択は、愛する対象者との無意識の同一化で決定されること
- むしろ痛みこそが周囲の人々の関心を呼び戻し、助けを求める最後の手段であることから、器質性の疼痛に悩む人々以上に、そこに器質性病院の証明されることを期待している。
- むしろ進んで痛みのつよい検査や外科的処置を頻繁に受け続けるが、その様子はあたかもそれらの検査を受けることによって自分の痛みを確証してもらい、それを周囲に認めさせるべく努力している姿に見える
- Tinling/Klein
- 難治疼痛症例に、“誇り高く気づ付きやすい性格構造”を認めた
- 患者にとって幼少期の分離体験と結合している痛みは、成長後対人関係における別離体験によって容易に出現してくる。痛みの発生の状況をみると多くは外界の身近な愛の対象者から拒絶されるのではないかという不安、もしくは現に拒絶されてしまった抑うつに端を発している。そこに生じた痛みは自分を捨てた人への恨みと攻撃感情の象徴であり、また一方でそれでもなおその人の助けを求める絶望的な願いでもある。換言すれば、それはかまわれ、甘えたいにもかかわらず、それを表現できない患者の受け身的な生き方の結果ともみなすことができよう。