うつ病診療における「えせ契約」について

井原裕:うつ病診療における「えせ契約」について. 精神経雑,112:1084-1090,2010.

  • うつ病診療の混乱は、診断学の問題にみえて、実は、医師・患者間の「えせ契約(Bogus cntract)」の問題である
  • 医者にできることと、患者が求めることとの乖離こそが、事態の本質なのである
  • 現代医学を過信する患者たちは、医者はその気になれば何でもわかるし、相談すれば何でも解決してくれると思っている。
  • 一方、医者は、医療には限界があり行き過ぎた治療は危険だと思っている。
  • この医療を過大評価する患者と、過大評価と知りつつ誤解を解こうとしない医者とあいだで、治療契約は相互欺瞞の営為と化した
  • うつ病は脳の病気」と宣言すれば直ちにコミュニケーション・ギャップが生じる。
  • 医師側は、自身の責務を薬物療法に限定させようとおもってこう宣言するが、患者側は逆にすべては薬で解決してもらえるかと錯覚する。その歳、両者は、重大な事実を隠蔽する。
  • 医学には限界があり、人生すべての問題を抗うつ剤が解消してくれるわけではないという自明の理である
  • 患者は、煩瑣(はんさ)な問題のすべてを投げ出して、医療にげたを預けるべきではない。精神科医は、患者に対し医学にできることとできないことを明示し、勇気をもって現実に向き合うように促すべきである

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  • 看過できない問題は、およそ薬物療法の対象でない事柄が、次々に診察室に持ち込まれてしまうことにある。抗うつ薬には、「抗多重債務効果」「抗パワハラ効果」「抗嫁姑葛藤効果」「セクハラ上司撃退効果」「DV夫婦矯正効果」「暴言妻鎮静効果」などはない
  • 精神療法には、「公然の秘密」がある。もっぱらそれが個人の独創性に依存するということである。結果として力量に巨大な個人差が発生する
  • 野球少年はすべてイチローを夢見るが、その大半は足元にも及ばずに終わる。精神科医も同じである
  • その問題とは、医師・患者間の「えせ契約」(bogus contract)の問題である
  • 医者にできることと、患者が求めることとの乖離ことこそが、事態の本質なのである
  • 患者の期待は大きい。医師にできることは限られている。ここに巨大なギャップがある。そのことに双方気づいているのに、気づかないふりをしている。そして、医者は患者をだまし、患者も医者をだまし、双方騙し合いにきづきつつ、いつまでもそれをやめようとしない、これが「えせ契約」の本質である
  • Smith R BMJ誌 巻頭言 「なぜ医者はかくも不幸なのか?」
    • 現代医学を過信する患者たちは、医者はその気になれば何でもわかるし、相談すれば何でも解決してくれると思っている。一方医者は、医療には限界があり、行き過ぎた治療は危険だと思っている。この、医療を過大評価する患者と、過大評価としりつつ誤解を解こうとしない医者との間で、治療契約は相互欺瞞の営為と化した
    • 合意点を探ろうとすると、まず、患者、医師双方が過酷な現実を認めるべきだ
    • それは、「死・病・痛は人生の一部である」ということであり、「医学には限界があり、社会問題を解決することはできないし、危険ですらある」。そして、「患者は問題をすべて医者に丸投げしてはならない」し、「医者はできないことはできない」というべきだ
  • うつ病は脳の病気」とは、真実でない。SSRIの機序から推測して打ち立てられた仮説に過ぎない。十分な立証を経たものでない。このような仮説に過ぎないものをあたかも確立したか事実のようにみなすことには、大きな問題があろう。科学的合理性に立脚することを課せられた医師が、アミン仮説に過剰に依拠して診療を行うことは、信頼をよせる国民に対する背信になろう
  • このテーゼが危険なのは、精神科医の側に治療者としての不安を脳仮説に固執することで解消しようとする強迫観念としての側面があるからである。脳仮説に対する信念の強さは、面接技術の自信の無さと比例する。
  • 精神療法とは、すべてを医師が患者になりかわって背負い込むことでない。治療の初期においては、一時的に諸問題を棚上げさせることも悪くない。しかし、治療の後半は、「人生の主役は患者自身」(自律性)という自明の事実を伝えていくことも重要である
  • 患者をいつまでも患者役割にとどまらせることは、彼らの利益にならない。そもそも、患者は、煩瑣な問題のすべてを投げ出して、医療にげたを預けるべきではない。精神科医は、患者に対し医学にできることとできないことを明示し、勇気をもって現実に向き合うよう促すべきなのである