慢性痛に対する睡眠薬の使い方と心構え

平林万紀彦、北原雅樹:慢性痛に対する睡眠薬の使い方と心構え. プラクティス, 35:177-178,2018

  • われわれは1日のうち約1/3を寝て過ごすが、睡眠は「疲労回復」と「脳の情報処理・記憶定着」のために必要と考えられている。慢性痛患者が良質な睡眠を喪失すると、注意や集中力が低下してミスが増え、いら立ち、痛みにも過敏になりやすい
  • 不眠を生じる拝啓
    • 寝床で過ごす時間の問題、情動興奮のモンぢあ、体内時計の問題
  • 慢性痛患者でhあ症状位j感の延長を是正することが特に重要であり、眠れないくらいなら床に就く必要はなく、週末を含めて毎日同じ時刻に起床するように筆者は指導している
  • 慢性通信量では、患者が望むように痛みを取り除くことをゴールにした治療は、満足いくほどの成果が得られない例が少なくない。それゆえに、「痛みをしっかり治したい」という患者のニーズに応えようとする行為が皮肉にも結果的に多剤併用をもたらしてしまう点が課題になっている
  • 多剤併用による過鎮静 集中力低下、ストレスにより混乱しやすい、睡眠障害をまねく
  • 以前より活気が低下していたり、動作が遅くなったりしていたら、薬剤性意識障害の除外を優先し、積極的に薬剤減量を試みたい
  • 睡眠薬処方を極める」よりも「やってはいけないことをやらない」方が取り組みやすいことからも、日中の覚醒レベルを低下させ、かえって病態を悪化させる睡眠薬の使いかえは控えたい

精神科治療のモデルとしてのplan-do-chick-act(PDCA)サイクル

斎間草平、井原裕 精神科治療のモデルとしてのplan-do-chick-act(PDCA)サイクル. 臨床精神医学, 44:651-654,2015.

  • PDCAにおいて「サイクルを回す」とは、診察を連続的な営みとすることを意味する。診察を一回ごとの単発にするのではなく、医師、患者の双方が診察の目的を把握し、実現可能な課題を考え、次回の診察に活かせるようなシリーズ形成が治療を前進させると考える
  • 臨床研究や診断統計上の目的によって、操作的診断基準は必要だが、治療を考えるうえでは、診断基準を満たすか否かだけを議論しても患者に資するところは少ない
  • 精神科治療においては、「医師と患者で治療を進めていく」という表現こそふさわしい
  • 医師は、日々、知識を深め、技術を磨いているが、同時に、自分の限界をも自覚しておきたい。
  • 医師自身の熱意が、かえって患者の治療意欲を摘み、受容的な姿勢をもたらしていないかは、注意して置かなければならない
  • 医師は、毎回の診察のたびに患者の希望や意欲、問題点を察知して、患者の積極性を引き出すことのできる新たなきっかけを探す必要がある。「治療」とは共同作業であり、あくまでも患者の積極性あってのことなのである
  • 患者、医師が共同となり治療や環境整備を進める一方で、患者に「この点は医師でなく弁護士に相談するように」と勧めるなど、医師の責任範囲をそのつど明確にすることが望ましい。患者が「医師をすべてを調整してくれる」という過大な期待を招くようになれば、問題解決にかえって消極的になる
  • 精神科の治療とは、薬物療法のことではない。薬物療法でなく、生活習慣をめぐる指導、対人関係をめぐる助言、優先順位に関する提案などをも含む後半かつ総合的な営みである
  • 不眠

—第一になすべきは、睡眠薬の選択ではなく、むしろ、睡眠状況の把握
—実際には睡眠薬投与以前にすべきことが多く、指導するべきことが見つからない患者のほうが珍しい
—いかなる自助努力も放棄した患者に対し、軽率に睡眠薬を投与してしまえば、たちどころにして医原性の睡眠薬依存を創ってしまう

  • 薬物療法にできること、できないことがあることも念頭に置かなければならない
  • 生活習慣をめぐる療養指導、適応状況をめぐる助言、復学・服飾などへの具体策の検討、代替案の提案などを繰り返しつつ、患者と共同して事態の収拾と現状への改善へと向かう。すなわち、薬物療法はあくまでも従であり、むしろ、非薬物療法を主とした治療を行うことが必要である
  • 大切なことは、医師と患者とが、毎回の診察の目的をどちらも理解していることである。毎回の診察の目的は、前回までの課題の達成状況をチェックして、それをもとに実現可能な目標をたてて、それを次回までの具体的な課題として確認することである。医師、患者とで協力して次回までの課題を考え、双方が実現可能性を考慮に入れて、最終的な課題として共有する。主治医はその覚書を診療録に残す。次回の診察の際は、その課題をふまえて、達成状況をチェックするところから診察を始める。その結果、診察が一回ごとに単発でなく、シリーズになっていく

DSM-5にしがみつかない生き方 臨床家の輪に加わりたい大学人のために

井原裕:DSM-5にしがみつかない生き方 臨床家の輪に加わりたい大学人のために. 精神医学, 57:608-610, 2015.

  • ヒトという生物の認知特性
  • 典型例をまず把握し、それとの類似性の認知によって理解していく
  • そこには操作主義者たちが想定しているような、定義的な基準のリストは存在しない
  • 兼本浩祐 抽象概念を把握する際に、ヒトは本性上、プロトタイプと類推を用いた認知を行う
  • 診断とは抽象概念を範疇化する過程である
  • 在野の精神科医の大半がDSM-5に無関心なのは認知生物学的な理由だけではない。むしろ、DSMが「師団と頭頚」のためのマニュアルだからである
  • 臨床家は「診断と統計」のために生きていない。「治療」のために生きている
  • DSM-5は、「診断と統計」のためのマニュアルであり、研究医が作った取り決めである。研究医の、研究医による、研究医のためのDSM-5であり、その目的に適う限りにおいて、その使用は正当化される
  • DSM-5を「治療」の場に用いれば、「目的外使用」になる。
  • 在野の臨床医がDSM-65に対して違和感を抱くのは、それが「診断と統計」のためのマニュアルだからだけではない。精神科一般は大学病院の臨床レベルに疑念を抱いており、DSM-5は役にたたない大学精神医学の象徴である
  • 大学人は、地域に実務の現場で鍛えられた鮮達の精神科医たちがゴマンといることを忘れてはならない
  • 大学人は臨床医一般に比して、日頃の鍛錬が不足している
  • 経験値を欠いた大学人たちが、不安から極端なイデオロギーに走ることは想像に難くない
  • 職業としての医師は、職人の集団である。
  • 職人の世界とは、会員制クラブであり、その道で長年にわたって経験を積み、腕を磨き、修羅場を踏んできた猛者だけが発現を許される。そこでは、「仕事ができるか」が唯一の価値観であり、できない者はクズのように扱われる。
  • 精神科臨床とは、患者を既存の範疇に押し込むことではなく、むしろ、個別の対応を検討することである。
  • 典型例との差異を読み取って、現在の問題を把握し、直ちに行う手立てを考えることである
  • 実践に必要なのは標準化などではけっしてなく、むしろ徹底的な個別化である
  • 大学人は臨床家の輪に加わるつもりなら、DSM-5にしがみつかない生き方を選択せざるを得ない。
  • 臨床の現実に向き合ってみればよい。そこには多様な患者がいる。多様性に応じた多彩な対応を行うことで、臨床家の

Why are doctors so unhappy ?

Smith R:Why are doctors so unhappy ? BMJ. 322:1073-1074,2001.

  • 医師と患者:えせ契約の再作成
  • 偽の契約:患者の見解
    • 現代医学は素晴らしいことができます。それは私の問題の多くを解決することができる
    • あなた(医師)は私の中を見て何が悪いのか知ることができる
    • あなたは、知る必要があるすべてを知っています
    • あなたは、私の問題を、私の社会的な問題でさえ、解決することができます、
    • だから、私たちはあなたに高い地位と良い給料を与えます
  • 嘘の契約:医師の見解
    • 現代医学の力は限られている
    • さらに悪いことに、それは危険です。
    • 我々は、すべての問題、特に社会的な問題を解決し始めることはできない
    • 私はすべてのことを知っているわけではないが、多くのことがどれだけ難しいかは知っている
    • 善をなすことと害をなすことの間のバランスは非常に重要である
    • 患者をがっかりさせないよう、地位を失わないようにするために、このことについては黙っていたほうがいい。
  • 新しい契約
  • 患者さんと医師の両方が知っていること:
    • 死、病気、痛みは人生の一部である
    • 医学は限られた力しか持っていません、特に社会問題を解決するには。そして医学は危険です。
    • 医師はすべてを知っているわけではありません。彼らは意思決定と心理的サポートが必要です。
    • 私たちは、一緒にこの中にいます
    • 患者は医者に問題を委ねることはできない。
    • 医師は自分たちの限界についてオープンでなければならない
    • 政治家は暴言を慎み、現実に目を向けるべきだ。

うつ病診療における「えせ契約」について

井原裕:うつ病診療における「えせ契約」について. 精神経雑,112:1084-1090,2010.

  • うつ病診療の混乱は、診断学の問題にみえて、実は、医師・患者間の「えせ契約(Bogus cntract)」の問題である
  • 医者にできることと、患者が求めることとの乖離こそが、事態の本質なのである
  • 現代医学を過信する患者たちは、医者はその気になれば何でもわかるし、相談すれば何でも解決してくれると思っている。
  • 一方、医者は、医療には限界があり行き過ぎた治療は危険だと思っている。
  • この医療を過大評価する患者と、過大評価と知りつつ誤解を解こうとしない医者とあいだで、治療契約は相互欺瞞の営為と化した
  • うつ病は脳の病気」と宣言すれば直ちにコミュニケーション・ギャップが生じる。
  • 医師側は、自身の責務を薬物療法に限定させようとおもってこう宣言するが、患者側は逆にすべては薬で解決してもらえるかと錯覚する。その歳、両者は、重大な事実を隠蔽する。
  • 医学には限界があり、人生すべての問題を抗うつ剤が解消してくれるわけではないという自明の理である
  • 患者は、煩瑣(はんさ)な問題のすべてを投げ出して、医療にげたを預けるべきではない。精神科医は、患者に対し医学にできることとできないことを明示し、勇気をもって現実に向き合うように促すべきである

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  • 看過できない問題は、およそ薬物療法の対象でない事柄が、次々に診察室に持ち込まれてしまうことにある。抗うつ薬には、「抗多重債務効果」「抗パワハラ効果」「抗嫁姑葛藤効果」「セクハラ上司撃退効果」「DV夫婦矯正効果」「暴言妻鎮静効果」などはない
  • 精神療法には、「公然の秘密」がある。もっぱらそれが個人の独創性に依存するということである。結果として力量に巨大な個人差が発生する
  • 野球少年はすべてイチローを夢見るが、その大半は足元にも及ばずに終わる。精神科医も同じである
  • その問題とは、医師・患者間の「えせ契約」(bogus contract)の問題である
  • 医者にできることと、患者が求めることとの乖離ことこそが、事態の本質なのである
  • 患者の期待は大きい。医師にできることは限られている。ここに巨大なギャップがある。そのことに双方気づいているのに、気づかないふりをしている。そして、医者は患者をだまし、患者も医者をだまし、双方騙し合いにきづきつつ、いつまでもそれをやめようとしない、これが「えせ契約」の本質である
  • Smith R BMJ誌 巻頭言 「なぜ医者はかくも不幸なのか?」
    • 現代医学を過信する患者たちは、医者はその気になれば何でもわかるし、相談すれば何でも解決してくれると思っている。一方医者は、医療には限界があり、行き過ぎた治療は危険だと思っている。この、医療を過大評価する患者と、過大評価としりつつ誤解を解こうとしない医者との間で、治療契約は相互欺瞞の営為と化した
    • 合意点を探ろうとすると、まず、患者、医師双方が過酷な現実を認めるべきだ
    • それは、「死・病・痛は人生の一部である」ということであり、「医学には限界があり、社会問題を解決することはできないし、危険ですらある」。そして、「患者は問題をすべて医者に丸投げしてはならない」し、「医者はできないことはできない」というべきだ
  • うつ病は脳の病気」とは、真実でない。SSRIの機序から推測して打ち立てられた仮説に過ぎない。十分な立証を経たものでない。このような仮説に過ぎないものをあたかも確立したか事実のようにみなすことには、大きな問題があろう。科学的合理性に立脚することを課せられた医師が、アミン仮説に過剰に依拠して診療を行うことは、信頼をよせる国民に対する背信になろう
  • このテーゼが危険なのは、精神科医の側に治療者としての不安を脳仮説に固執することで解消しようとする強迫観念としての側面があるからである。脳仮説に対する信念の強さは、面接技術の自信の無さと比例する。
  • 精神療法とは、すべてを医師が患者になりかわって背負い込むことでない。治療の初期においては、一時的に諸問題を棚上げさせることも悪くない。しかし、治療の後半は、「人生の主役は患者自身」(自律性)という自明の事実を伝えていくことも重要である
  • 患者をいつまでも患者役割にとどまらせることは、彼らの利益にならない。そもそも、患者は、煩瑣な問題のすべてを投げ出して、医療にげたを預けるべきではない。精神科医は、患者に対し医学にできることとできないことを明示し、勇気をもって現実に向き合うよう促すべきなのである

なぜオピオイド鎮静薬依存症に陥るのか

松本俊彦:なぜオピオイド鎮静薬依存症に陥るのか 臨床の立場から。ペインクリニック、39:1570-1578,2018

  • むしろわれわれが注目すべきなのは、かくも深刻な飽きっぽさを抱えているにもかかわらず、一部の限られた人たちだけが、いつまでも倦むことなくある特定の薬物を使い続けるはなぜなのか、つまり、なぜある人だけが依存症になるのか
  • 1978 Bruce Alexander ネズミの楽園実験  植民地ネズミと楽園ネズミ
  • 植民地ネズミの多くが、孤独な檻の中で頻繁かつ大量のモルヒネを摂取しては、日がな一日酩酊していた
  • どうやらネズミにとって仲間との相互交流は麻薬などよりはるかに魅力的な楽しみであり、同時に、モルヒネの薬理作用で心身の活動性が鈍り、仲間との相互交流の妨げになることを嫌った可能性がある
  • すなわち、自分の置かれた状況が、あたかも「狭苦しい檻」のように、孤独で不自由を感じている人の方が、「楽園」と感じている人よりも薬物依存症になりやすいということ、いいかえれば、薬物依存症の原因は人と薬物でもなく、その人が置かれた環境・状況にあるという可能性である
  • 正の強化はすぐ馴化する
  • なぜ一部の者だけがその薬物摂取を飽くことな繰り返すのか。おそらくそれは、その行動によって快感が得られるのではなく、苦痛(それまで続いてきた悩みや痛み、苦しみ)が一時的に緩和される(=負の強化)からではなかろうか
  • まさにこの負の強化こそが薬物依存症の本質
  • 止め続けることがかくも難しい理由は、薬物が、すくなくとも一時的に患者の苦痛を緩和する「心の松葉杖」として機能してきたからである
  • その意味では、依存症治療にあたって最も必要な情報とは、薬物使用が引き起こした結果ではなく、その薬物が果たしてきた機能に関するものである
  • 必要なのは、「その薬物があなたに何を与えてくれたのか」という質問をし、「心の松葉杖」としてどのような機能を果たしてきたのかという情報である
  • 1980年代 Khantzianらによって提唱された自己治療仮説
    • 治療仮設は、依存症の本質を「快感の追求」ではなく「心理的苦痛の緩和」と捉える理論であり、「薬物依存症者は、薬物使用を開始する以前より心理的苦痛を抱えている」ことを想定している
    • 自己治療仮説が興味深いのは、心理的苦痛の性質と乱用薬物との関係に言及している点
    • 激しい怒りを鎮めるには麻薬や大量のアルコール、気分の落ち込みや意欲の低下、過酷な労働による疲労には覚醒剤やコカイン、対人場面での緊張や不安に悩む人には睡眠薬や少量ー中等量のアルコール
    • 要するに、薬物依存者は、それぞれが抱えている「苦痛」を緩和するのに役立つ薬理作用を持つ薬物を選択している
    • Khantzianらは、「その人が抱える問題の性質と薬物の薬理作用とのマッチング」という、さらに一歩踏み込んだ軸を追加した
  • Khantzian 長く続く苦痛しかもたらさない薬物摂取行動でさえも、基底に存在する苦痛の緩和に役立っている可能性があると指摘している
  • Dodes 嗜癖は人生早期から障害にわたって心を蝕む無力感に根ざしたものである。長期間持続する感情状態は自己感覚をを損傷するが、嗜癖はその人が抱える無力感を反転させ、パワーとコントロールの感覚を再確立することで、一時的に好ましく感じる自己感覚をもたらすことがある
  • Khanzian 依存性者は薬物によって感情の量と質を変えている。彼らは、自分には理解できない不快感を、自分がよく理解している薬物が引き起こす不快感へと置き換えることで、「コントロールできない苦痛」を、「コントロールできる苦痛」への変えている
  • 薬物依存症者とは、独力で苦痛や苦悩をコントロールすることに執着している人たちである
  • 苦痛は減圧されないまま意識下に抑圧され、その蓄積が極度の内的緊張を生み出すとともに、長期的には感情調節障害を準備する。このような内的緊張状態にあるものは、薬物がもたらす苦痛の緩和効果を自覚しやすく、「報酬」としての効果も大きい
  • 薬物依存症者の援助希求の乏しさ alexithymiaだけでなく、他者一般に対する強い不信感
  • 薬物依存症の決まって口にする言葉 人は必ず裏切るが、クスリは私を裏切らない
  • いささか皮肉な表現であるけれども、依存性者とは、「安心して人に依存することができない人たち」であるといえるかもしれない
  • 薬物依存症者になるのは、けっして快楽を貪ったからではない
  • 何らかの苦痛が存在し、誰も信じられず、頼ることもできない世界の中で、「これさえあれば、何があっても自分は独力で対処できる」という嘘の万能感で自分を騙し続けたこと、あるいは、本来はもっと早く周囲の人間に愚痴り、相談し、助けをもとめるべきところを、「私は元気」「私はまだ大丈夫」と自分の心の木津付きから目をそらし続けたことである。筆者には、それこそが薬物依存症の基底にある病因であるように思えてならない
  • 薬物依存症の根っこにあるのは、安心して人に依存できない心である
  • 依存症からの回復には、回復しやすい環境が必要である。そして、その環境とは、安心して「オピオイド鎮静薬を飲みすぎてしまう「と発言できる治療関係、それはつまり、そのような自身の失敗を語っても、見捨てられたり、叱責されたり、恥辱的な体験をしたり、治療から排除されたりせず、むしろそういった発言を回復の第一歩とみなし、応援してもらえる主治医との治療関係である

心因性疼痛を考える:用語としての認知性疼痛の提案. 

牛田享宏、野口光一、細川豊史、田口敏彦、高橋和久、住谷昌彦、菊地臣一:心因性疼痛を考える:養護としての認知性疼痛の提案. PAIN RES, 33:183-191,2018

  • 痛みの強さや痛みの顕示行動は、痛みの原因とは関係なく、いずれも心理社会的な精神的ストレス要因によって修飾されうる
  • 医師から、「手術手技には問題が無かったから、心因性のいたみでしょう」と言われると、患者によっては、痛みを感じるのは「気のせいだ」とか、「精神がおかしいからだ」といわれているように感じるかもしれない
  • 患者と医療従事者との間に信頼関係があるほど治療成績は向上する
  • 痛みの理解を浸透させるには、「心の問題」を想起させる用語ではなく「脳の問題」であることを感覚的に捉えやすい用語を用いたほうが適切ではないかと考えられる
  • 本稿では第3の疼痛の名称として、新たに「認知性疼痛」との用語を提案したい
  • 治療成績の向上には患者と医療従事者との間の信頼関係が不可欠であり、それを損なう言葉は用語として適切ではない。つまり、患者が健康を回復する方向性にとって望ましい用語でないと第3のグループに対して呼称を新たに提案する意味がないのである
  • 認知性疼痛の定義は後述するが、医学的には、身体認知失調性疼痛あるいは精神機能失調性疼痛のほうが、概念の表現としては適当であるように思われる
  • 脳のオーバーアクティビテイ(過剰な神経興奮)やハイパーセンシティビティ(痛みに対する過剰な感受性の亢進)の結果として痛みを知覚しているという病態であり、「脳内で痛みが生じ、その痛みを過剰かつ過敏に認知するようになって認知性疼痛と考えれば理解しやすい
  • 前提として、認知性疼痛は原因論的な痛みの病態を定義した侵害受容性疼痛や神経障害性疼痛とは次元の異なる概念であり、それ自体が疾患名という訳でなく、痛みに病態の一つとして捉える必要がある
  • 重要なのは、認知性疼痛が生じているということは、何らかの変化(異常)が脳に生じている可能性があるということである