児島達美 疼痛“体験”としての慢性疼痛 −臨床心理士の立場から こころの臨床ア・ラ・カルト 1994;13:26-32
- 器質的所見がない、とされるのは時間的経過すなわち慢性化をたどる中で、発症時での病態生理学的な所見ではもはや説明のつかない多くの要因が関与した疼痛の持続状態に対してやもうえず、“心因性”と診断しているにすぎないということになる
- Melzack(1983)は、「慢性疼痛をノイローゼの症状に帰するのは明らかに不合理である。分厚い診療記録をもつ患者たちはノイローゼで、このノイローゼが痛みの原因だとする治療者のあてこすりの犠牲者になっていることが多すぎる」と結論付けている
- いずれにしろ、“心因性”という概念が治療者によってあまりにも安易に使われすぎることによって、慢性疼痛の実態を不明確にし、それどころか一層患者の症状の慢性化を助長している場合がきわめて多い。
- 疼痛“体験”としての慢性疼痛
- 疼痛発症時 sensory-physiological level pain (感覚・生理レベルの疼痛)
- 慢性化した疼痛レベル perceptive-experienced level pain (知覚・経験レベルの疼痛)
- 個々の患者の生活と疼痛が相互にどのように影響し合っているか、という評価が重要となるのである。たとえば、疼痛に対して患者はどのような心的構えをもち、またどのような対処行動をとってきたか、といった見方である。
- 疼痛に対する患者の心的構えや対処行動そして種々の心理反応が疼痛を強化持続させる因子となっていることが多い
- Kleinmann,A 1992 「“疾病”とは、生物学的プロセスと心理的プロセスの両方あるいは一方の機能不全をさす。それに対し“病い”とは、知覚された疾病の心理社会的な体験のされ方や意味付けをさす」
- 「病いの概念には、とりわけ家族や社会的ネットワーク内部でのコミュニケーションや相互作用も含まれる」
- 「慢性疾患の場合、疾病と病いを区別するのは困難である。こうした疾患では、疾病は快方に向かっていても病いが残っている場合もあるし、また疾病の再発自体が病いによる場合もある。悪化するにしろ快方に向かうにしろ、病気のこの2つの側面が、互いに連動して変化していくのが普通である」
- 心身症患者が訴える身体症状にはsignal aspect of somatic disease(ある実体的な身体疾患の信号としての側面)とmetaphorical-communicative aspect(隠喩ないしは対人関係におけるコミュニケーションの質を定義するような徴候としての側面)という異なる言語レベルを同時にあわせもっており、かつ、特に後者の側面が著しく表れていると理解することができる
- 疼痛を患者がいかに認知しているかという点を徐々に明らかにしていくような、従来の問診や心理面接とはやや異なる質問技法が必要となる
- くわえて、疼痛“体験”が患者個人を超えて実際に「家族や社会的ネットワーク内部でのコミュニケーションや相互作用も含まれる」ことになれば、システムズアプローチが提唱するような関係性の言語に基づく円環的な認識論と質問技法も重要となろう
- 心身医学は、従来の生物学一辺倒の医療モデルから心理・社会的因子を射程にいれ、かつ患者のQOL向上を含めた“全人的医療”を目指す点できわめて画期的な役割を果てしてきている。しかし、心理・社会的因子が重視されることによって、かえって患者の“病気”の治療ではなく、患者“自身”を治療するという、治療という名のもとに隠れた暴力性を孕んでいやしないかと危惧するのであるが、いかがなものであろうか
- ここで、是非とも筆者が強調しておきたいのは、疼痛の治療に患者・家族も専門家として参加し、われわれ治療者との共同関係を作り上げなければならないということである。この時、患者・家族の専門性は何かといえば、他でもない“疼痛”体験者としてのそれなのである。