柴田政彦、榎本聖香、山田恵子、藤野裕士 痛みの責任は誰にある? 日臨麻会誌 2017;37(7):838-843
- 国際疼痛学会の定義 痛みは実質的または潜在的な組織損傷に結びつく、あるいはこのような損傷を表す言葉は使って述べられる不快な感覚・情動体験とされている
- さらにこの定義に続く注釈の中で、「痛みは常に主観的なものであり、人は小児期の外傷などの経験と通じて、「痛み」という言葉の使い方を学ぶ」と解説されている
- 傷み 損傷を意味する injury 傷みはpain
- 日本語ではinjuryとpainとが同じ音で表現されている。すなわち、会話などの音の情報の場合には「痛み」と「傷み」の区別が困難で、文脈からその意味を判断することになる
- われわれは、自分自身の経験から、「痛み」と「傷み」とをあまり区別せずに会話しており、医療者として患者を診る場合にもその区別があいまいなまま診療してしまうことがあるようだ。
- しかしながら、痛みの原因を特定できない慢性痛の診療を行っていると、このわれわれ自身の「いたみ」に対する捉え方のあいまいさが、「痛みの責任」の所在がどこにあるかの判断のあいまいさに影響しているのではないかと気づく
- 痛みは「不快な感覚・情動体験」であるので、その体験が自分以外の他者に伝わる場合には、「痛いという言葉にして発する行為」、「顔をしかめる」「足を引きずる」などの「痛そうなしぐさ」など、他者と共有できる何らかの行動が不可欠である
- 「痛み」は「行動」として表出されなければ他者に共有されることはない。すなわち痛みそのものは客観化できないもので、客観化しているものは痛み行動である
- 慢性痛には、オペラント条件づけによる痛み行動の強化が寄与しているとかんがえられいる
- 訴訟の場においては、痛み行動を強化する周囲の要因や痛み行動の強化に関連した本人の資質などに関連する情報がない状況で、裁判官は何らかな判断をくださなければならないという矛盾がある
- 不公平感の評価尺度
図2の採血などの血管穿刺を受ける前にお読みくださいは、全ての採血に掲示が必要であろう