細井昌子 集学的治療実践の場から見た慢性疼痛ー内科領域ー こころの臨床ア・ラ・カルト 1994;13:21-25

  • その率直な訴えに沿って、その痛みが発症し持続、増悪していく流れを患者の身体の変化や周囲の対応の仕方との観点で検討していくと、意外にも先進的な医療機器を使用せずして、その痛みの警告していることが理解しやすくなってくる事が多い。
  • つまりそれらの患者の痛みが警告しているのは、生体内の”器質的な”異常だけではなくて、”機能的な”異常であったり、そういった異常の背景となっている家庭内の危機的状態や、職場内での患者の危機状態であったりするのである。
  • つまり、痛みの警告するものは、システムの異常であることには変わりないが、それは生体というシステムのみならず、生体をとりまく家庭や職場といったもっと大きなシステムを考慮する必要があるのである。
  • 1986 IASP 痛みの定義 痛みとは、組織の実質的あるいは潜在的な障害に結びつくか、このような障害を表す言葉を使って述べられる不快な感覚、情動体験である”
  • ”痛みがあるかないか”もしくは”痛みが本物か否か”を議論することはいまやナンセンスなのである。
  • 難治性疼痛を伴う患者の治療に当たる中で必要とされるのは、”CURE”よりも”CARE"の態度であろう
  • 当科においても疼痛そのものの治療はもとより、周囲に痛みの存在を示す随意的な行動である”疼痛行動”の治療の必要性が、臨床心理士との討論で指摘されることとなった
  • 患者のその瞬間での痛みの緩和には医療スタッフの養護的な反応は有効であろうが、痛みを訴える時にのみ反応してくれるというような医療スタッフの反応性を体得してしまった患者は、種々の不快感を身体的な痛みで表現してくるようになりがちである。
  • 現在の医療の現場では医療スタッフが過酷な労働を強いられていることが多く、患者が心理社会的な問題を語っても十分言語的に交流する余裕がないようである。家庭や職場でのシステムの異常を背景に身体的、心理的に苦痛がおこっている患者にとっても、医療スタッフが十分な時間を取って対応してくれるのは身体的痛みを訴えるときのみとなる。こういった医療現場の特性のなかで、患者は”より重症感のある患者”になっていくことが多く、そういった成り立ちは患者自身はもちろん医療スタッフにも認識されることはない。慢性疼痛患者を永遠に慢性疼痛患者にしないためには、患者をとりまく医師、患者、家族の反応様式を検討していくことが必須である
  • 慢性疼痛の治療を多数経験していく中で、以下の認識が治療の重要なポイントとなっていくことがわかってきた。つまり、痛み刺激にたいする反応様式であり個人差が大きい疼痛行動は、慢性化につれコミュニケーションとして機能するようになってくるということである。
  • 疼痛が家族内葛藤の回避のために持続している場合には、個人に対する支持的な心理療法だけでは疼痛は改善しない
  • また現実社会での自分の役割を見出せないために患者の役割を演じ続けなければならず、疼痛行動が持続している患者も多い。
  • 患者にとって症状の意味を理解し、現実生活でのあらたな役割を創造するような患者や家族へのアプローチを行わずに、患者の病態を明確化して現実を直面化させるならば、患者のよりどころがなくなり、患者を追い込んでしまうことになってしまう。
  • 患者の疼痛を減らす処置の一方で、患者の具体的なよりどころを新たに作っていくことが大切であり、新たなよりどころができつつあるなかで花道的な身体的アプローチは特に有効となるようである。
  • 患者の疼痛の持続、増悪に患者の対人交流の問題(過剰に自罰的、あるいは他罰的)や、人格障害が関与している場合は、一般に治療が長期化することが多い。患者の訴える身体的な苦痛は、社会的疎外感などの身分化な不快感であることがあり、精神分析的なカウンセリングや作業療法を施行していく中で、言語的、非言語的に分化が促進されていき、治療の場で具体的に検討可能な状況が設定されることになる