「痛い!」対談

熊谷晋一郎、信田さよ子 「痛い!」対談 精神看護 2011;14(2): 73-80

  • そろっていえるのは、安全な場所に移動してから痛むっていうこと
  • 無理をするなとか、もう少し様子をみましょうって、すごい言葉ですよね。よく医者はいうんですけど、こんな地獄の言葉ないですよね。どうすれば様子をみることになるんだか。
  • 痛みがつづくと、自分のなかのボディイメージも変わる
  • 全身を神経逆立てるようにして、痛みを避けるように生きてきて、ほっと安心したときから痛みがでてくる。それって、自分が安全で安心できる状態にやっと今居るっていうことの、最低限の証じゃないかなって思うんです
  • もう殴られてなくて、骨折も構造としては完全に回復しているのにもかかわらず、まだ痛いという状態がどうもあるらしい。それを慢性疼痛とよんでいます。なぜそんなことが起こるかっていうと、どうもその記憶が残っているのではないか、痛みの記憶が中枢神経に刻み込まれてしまっているのではないかと今のところいわれています。つまり「痛みの記憶」というものが、どうも慢性疼痛のメカニズムではないかと言われている
  • 「悼み」も「傷み」も「痛み」も同じ
  • 痛いっていう感覚を得たら、次の段階で「なんで痛いんだろう」と理由を考えますよね。つまり理由を探そうとする。その痛みに対する何らかの説明を欲している。怖いのは、なんで痛いかよくわからないっていうことです。このままどうなってしまうんだろう、っていうのが一番心配だし怖い。セカンドオピニオンを繰り返し求めるのも、もちろん治してほしい気持ちもありますが、それと同時に、「何が私に起きてるんですか」と、意味や理由を欲しているようなところがやはりありますね。
  • 少なくとも構造的な理由だったら言葉程度では変わらないと思っていたのに、その一言で消えてしまうということはきっと構造的なハードの問題ではなくて、もうちょっとソフトな側の問題の痛みだったんだろうなと
  • やっぱり信仰の手前にあって不確実性を減らしてくれる何かって言った時に、ひとつはやっぱり知識の「知」じゃないかって思っていて。