慢性痛の当事者研究

岡本さゆり 慢性痛の当事者研究 Locomotive Pain Frontier 2017;6(2):86-69

  • 当事者研究における外在化の手法は慢性痛を軽減させる一つの手立てとなる可能性があり、応用性が高いと考えられる
  • 慢性痛の当事者研究は自らの身体の変容を含めた自己の再組織化である
  • まず「本当に自分の身体に痛みがあるのかどうかを疑ってみる」ことから始め、次に「痛みをつかんで話さない自分自身に気づく」段階を経て、「痛みに苦しむかわいそうな自分を突き放す」ことが可能となり、自分と痛みの間に距離ができた。
  • つまり、痛みによる「苦痛」を単に「痛み」として受け入れることに成功すると、痛みはその存在感を失い、痛みそのものが減少したのである
  • この一連の流れは痛みと自分を客観化することであり、当事者研究の外在化の手法と通底している
  • かつて筆者がそうであったように、慢性痛患者の多くが、自分の痛みは器質的なものであるという信念に固執し、痛みを増幅させている心理的側面には触れたがらない傾向が強い。
  • 筆者の慢性痛改善プロセスは、足りないものを埋めるのでなく、歪んだ試行を認知によって修正することでもなかった
  • 「間違った考えをやめましょう」と思っている間は、その考えに囚われているのであるから、慢性痛のあるなしにかかわらず、その状態から抜け出すことは誰にとっても至難の業である
  • 慢性痛を抱える人は大なり小なり痛みにハイジャックされ、四六時中痛みが頭から離れない
  • その支配が自分自身で作り出したものであることをすっかり忘れ、痛みという異物が勝手に自分を支配していると思いこんでいる場合が多い。
  • 「痛みという異物に支配された自分」は本当の自分ではないため、排除しなければならず、いつまでも痛みを敵対視してしまう。
  • 「これ(痛み)さえなければ」「これ(痛み)があると何もできない」「どうせ痛みなんかとれない」「どうせ何をやってもダメだ」など、痛みに対する無力感は底なし沼の様相を呈する
  • これらの思考傾向がない人は痛みが慢性化しないと考えるのが現実的なのかもしれない
  • 自己批判なんて、毎日やっているよ。痛みが続くのはきっと自分がダメなところがあるからだとうすうす思っているからね。だが、自己批判こそが思考の歪みではないのか。自己批判ではなく、自分への信頼感を取り戻したいとねがっているのだ。自己批判を共用されるのではなく、痛みがあってもなお生き続けていることをまずは認めてもらえないだろうか。そこから自分への信頼感と他者への信頼感が生まれるのではないか。」と
  • 他方、「自分が治すという気持ちがないと慢性痛は治りません」という”正しさ”が、痛む本人を追い詰めてはいないだろうか
  • 当事者同士の何気ない会話がきっかけになり、「んっ?あの人もそうなのか。それなら自分も何かやってみようか」というような「自分が自分で自分を治す」自覚がおぼろげにでるまで、時間をかけて醸成していくことが当事者研究の醍醐味ではないかと思う
  • 丸田 a)痛みの精神医学的側面は、痛みと共存する症状として語られるべきである。b)痛みの原因として精神科疾患を論じる時には、治療が不成功に終わる例が多い
  • Schwarzは「慢性痛治療のミッシングリンクは地域に根ざした学際的チームの一翼を担えそうなピアコンサルタントかも知れない」と述べているが、慢性痛治療のパズルを埋める最後のピースはピアサポートなのだろうか。