心気症者の痛みについて 

長沼六一 心気症者の痛みについて 精神医学 1972;14:41-47

  • 「自分の身体におこる軽微な変化に対する過度のとらわれ」から、あいまいで主観的な身体症状を訴え続ける「心気症」という疾患は、古く紀元前から記載されている。
  • 一般科の医師たちは医師という社会的役割により、患者の身体をただ物理的対象とみるのみで、器質的障害のみつからないときあたかもその痛みが実在する身体疾患から生じた器質的痛みのように取扱い、多くはそれに同調するふりをしているものと思われる。
  • 一方患者も、自分を他人の身体のごとく観察する立場に立ち、自我が体験した感情の表現である痛みを、あたかも感覚された痛みのように報告し、医師をあざむいている。
  • 患者の方もその痛みと苦痛を身体疾患の実在の証明として、「自分は病人である」という自己同一性と社会的存在理由を確立していっている。
  • 図に表現してあるこれらの痛みが、身体表面にのみ限られ、身体内部には及んでいないということは、この痛みが身体武装body armourの役をなしているといえる。
  • 心理テストに抵抗 患者は精神科医がその心的内界に入り込んでいくことを、痛みによって武装しているといえる。
  • その絶えることができないという痛みは、まさに本人自身が「病人の役割」を願っていることを示し、その正当な役割を確証し、周囲の環境との調停の役をなしているため、それを消し去ってもらうということは、けっして望んでいないという印象であった。
  • 患者は「痛むこと」のみを生涯の仕事にして、それに没頭しきっているように見えた。
  • ここに患者は自らの痛みが象徴化していた感情、すなわち周囲の者への強い怒りと敵意、またそれと同時に存在する彼等を失うことへの不安等を洞察するに到った。
  • 心気症者一般に共通していえることは、幼少の頃より、不幸な生活、失意、葛藤の連続であり、社会的な孤立化が認められる点である。
  • 彼等は自らの健康の不全感の上に立ち、自分の関心の興味の中心を、すべて些細な身体的変化の上に集中していく。集中すればするほど、他の欠陥が新しく創り出されていき、それはますま彼ら自身を悩ませる。
  • 彼等の会話の主題は、常に自分がいかに健康を害しているかということでしめられ、周りの人々へ「自分は病人である」ということをただ無理矢理に押し付ける。そこには人間的交流の基礎となるべき、共感を覚える温かさ、楽しさはまったくなく、周囲の人は唯うんざりし、悩ませられるのみである。こうして彼等は社会のなかで厄介者となり、孤立化していく。
  • 患者はただ、医師から身体的疾患の承認を得ることのみを期待し、そこに心身の相関といったようなものを認めることを、極度に恐れ、拒否しているということであろう。
  • 健康人にとっての社会的役割はー存在理由は、すべて外界にお対象との関連においてある。しかし心気症者にとってのそれはすでに無く、自らの身体のみが生きがいなのである。
  • 一般科での痛み 受動的な感覚としての痛み、生命を保持していく上で必要不可欠の警告としての信号、過去でのその種の体験の有無に関係なく生じる 痛みの体験者とその観察者である自己との間に差はない
  • 精神科における痛み 感情であり、それは過去にその種の体験をした身体自我により、積極的に創造されるものである 痛みを受けているものと、それを観察、評価しているものとの間に相違がみられる。
  • 一般科 痛みはただ感覚としてのみ評価観察される。すなわちここでは痛みが一つの感情であるという、身体をその患者自身だけに心理的対象として見る面は、全くかんがえられていない。
  • 心気症者は、痛みのよって自らを武装しているのであるが、その手段として器質的障害の存在をみとめてもらおうと、より多くの社会言語を用いている
  • 第2例において、「わたしは右頸から肩にかけていたい」という社会言語を「私は母や弟たちが憎い、しかし彼等が離れていくのはつらく悲しい」という個人言語に翻訳したのだ。
  • 心気症患者の精神現象および精神力動
    • 心気症者の生活歴は不幸の連続であり、対人関係はきわめて貧困である
    • 心気症者の痛みは、社会生活の中で孤立化した彼等の社会的役割、地位の保障である。
    • 心気症者痛みは身体武装と考えられる