井原裕

文化としての精神病理学 -「データの学」との対比における「言説の学」ー

井原裕 文化としての精神病理学 -「データの学」との対比における「言説の学」ー. 臨床精神医学, 31:649-655,2002 精神医学は本来、部分でなく、人間全体を扱う学のはずである。精神科臨床は人間全体を扱う ここでいう言説とは、「一定のテーマに関する組織…

精神科治療のモデルとしてのplan-do-chick-act(PDCA)サイクル

斎間草平、井原裕 精神科治療のモデルとしてのplan-do-chick-act(PDCA)サイクル. 臨床精神医学, 44:651-654,2015. PDCAにおいて「サイクルを回す」とは、診察を連続的な営みとすることを意味する。診察を一回ごとの単発にするのではなく、医師、患者の双方が…

DSM-5にしがみつかない生き方 臨床家の輪に加わりたい大学人のために

井原裕:DSM-5にしがみつかない生き方 臨床家の輪に加わりたい大学人のために. 精神医学, 57:608-610, 2015. ヒトという生物の認知特性 典型例をまず把握し、それとの類似性の認知によって理解していく そこには操作主義者たちが想定しているような、定義的な…

うつ病診療における「えせ契約」について

井原裕:うつ病診療における「えせ契約」について. 精神経雑,112:1084-1090,2010. うつ病診療の混乱は、診断学の問題にみえて、実は、医師・患者間の「えせ契約(Bogus cntract)」の問題である 医者にできることと、患者が求めることとの乖離こそが、事態の本…

不幸な人には、それ相応の接し方が必要である 患者の求めるものと医療者の提供できるものとのあいだには常に齟齬がある 患者は医療に過大な期待を抱いている。なんとかして助かろうと思い、医者に救いを求める。「医者ならなんとかしてくれるはずだ」「治し…

どんなに優れた抗うつ薬も、十分な睡眠をとる人にしか効かない 精神療法とはすなわちライフレビューである 職場は仕事を覚える場であるにとどまらない。そこは、人間について学ぶ場である 日本人は、金を積んでも動かない。むしろ、感動の共有によって動いて…

中井久夫「精神科医は何よりもまず患者との相互作用によってつくられる」 精神科臨床のスキルは、宣言的記憶よりも、手続き記憶の面が強い。したがって、数学、語学、楽器の演奏などと同様、ある程度量をこなさないとうまくならない。 すぐれた治療者は、容…

生活習慣病としてのうつ病

精神科の内部批判というものは一面では難しい。わたしのように「薬漬け」批判を行うと、どうしても精神科の一部を敵に回すことになってしまう。ただ、私は少数の同僚を敵に回すことよりも、多数のユーザーを敵に回すことの方を恐れる 逆に、私に言わせれば、…

思春期の精神科面接ライブ-こころの診察室から‐

精神科面接の教科書には、「傾聴」、「支持」、「共感」が精神療法の基本として無造作に並べ立ててあるのですが、それらを診察の状況においてみると、必須とされるものが時として有害であることに気付かされます。実際、何も考えないで教科書のとおりに、「…

著者の講演を2013/7月のペインクリニック学会での教育研修講演、および製薬会社のweb講演会で拝聴したことがあり、このたび著作を取り寄せて拝読した。非常に示唆に富む本であり、慢性疼痛の臨床に応用が可能と思った。 高齢者の不眠 まず尋ねるべきは、夕…