詳細に生育歴を聴くことが顔面痛の軽減のきっかけとなった一例

芦沢健、本間真理、池田望 詳細に生育歴を聴くことが顔面痛の軽減のきっかけとなった一例 慢性疼痛 2003;22(1):81-84

  • 6年前生まれて初めて沢山話を聞いてもらった。自分自身を見つめ直すきっかけとなったとのことであった
  • 患者は父親にも夫にも暴力をふるわれていた。患者にとっての夫の暴力は、その時だけでなく子どもの時からの父親からの暴力を鮮明に想起させる辛い再体験であることが窺える。再体験は繰り返され心身ともに外傷体験が強化されたと考えられる。患者は右手で殴られていたことから、左顔面に疼痛が強いことも解釈できる。
  • 医療人類学からKleinmanは慢性の病いを抱えた患者の物語を社会的プロセスとして理解し、この物語こそが医療やケアの中心にすえられるものであるとしている。この患者にとって詳細に生育歴を聴取することは、症状形成のプロセスを物語として受容共感する共同作業となったと理解できるかもしれない
  • こうしたスタンスに基づく治療的対話の中から患者の物語の書き換えがおきるとのことである。生育歴を詳細に受容的に聴取したことが回復過程において患者の悲惨な物語から自己肯定的な物語として書き換えがされたと解釈できる。これはナラティブ・セラピーとして理解できるかもしれない

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高齢者の心因

木村宏之 高齢者の心因 老年精神医学雑誌 2016;27(10):1037-1045

  • 1952 軍部の主導でDiagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders (DSM-I)が出版された。当時アメリカで全盛だった力動精神医学の考え方が取り入られた
  • 1968 DSM-II 神経症は引き続き用いられ、ヒステリーは解離ヒステリーと転換ヒステリーに分割されて診断された
  • 1980 DSM-III 症状記述的を中心とした操作性診断基準を採用 力動的な理解を含む神経症という用語/概念を用いなくなった
    • 転換ヒステリーは、身体表現性障害という診断名に変更。
  • 1987 DSM-III-R  身体症状は、明らかな心理社会的ストレッサ―と症状の出現あるいは悪化の時間的関係を認めればよくなった。このように力動的な色彩は段階的に薄まり、「心因」はほぼ除外された
  • 2000 DSM-IV-TR 多軸診断(I軸:精神疾患、II軸:パーソナリティ障害/知的障害、III軸:身体疾患、IV軸:(発症時の)環境的問題・心理社会的問題、V軸:全般的社会機能(Global Assessment of Functioning;GAF))が採用されて、患者を包括的に理解することになった。その多軸診断のなかで心因は形をかえて登場する
  • 2013 DSM-5 身体表現性障害は身体症状症という診断名になった。そして、「(変換症は除き)身体症状に対して医学的説明ができない」ことが、定義から除外された。また医学的に説明できないことよりも、「苦痛を伴う身体症状とそれに対する異常な思考・感情・行動」に主眼がおかれたことがある。多軸診断は中止され、1-III軸はまとめて記載、IV軸はICD-10-CMを用いて心理社会的・環境問題に関する内容をコード化
  • 「心因」は、「説明のつかない」神経症の原因であったが、そこから「心理的要因」という色彩をより強めた。そして、「心理的要因」そのものの評価は、精神力動的な「主観的理解」から客観的評価コードによる「客観的理解」へとその軸足をうつしつつる

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自閉症スペクトラム症におけるトラウマ・ストレス・痛みと自己感

綾屋紗月 自閉症スペクトラム症におけるトラウマ・ストレス・痛みと自己感 トラウマティック・ストレス 2015;13(1):23-33

  • ストレスやトラウマとは、予期に対する脅威として定義できる
  • 痛みは2つの自己感-(内蔵制御信号ー内臓感覚ー運動制御信号ー自己受容感覚ー外受容感覚)の統合パターンである「感覚ー運動ループとしての自己」と、エピソード記憶と概念的自己が統合された「自伝的記憶としての自己」ーという観点から分析することができる
  • 帰属的推論に関する二段階モデルでは、帰属的推論の過程は、はじめに同定(identification)、続いて帰属(attribution)という二段階を経て処理されると考えられている。そしてその二段階に用いられる神経回路のそれぞろが、2つの自己感を担っている
  • 他者の行動は自己の行動と異なり、多くの場合、統合パターンのうち視聴覚フィードバックしか観測できないが、その観測内容に自己の統合パターンを適応することで、観測されない他者の運動指令や感情が推測される。これが同定である
  • ASDの運動制御 1.運動制御信号ー自己受容感覚フィードバック、2.運動制御信号ー資格フィードバックというふたつの運動制御系のバランスにおいて、1への依存度>2への依存度となっている。1への依存度が高いほど、社会性が低く、運動模倣が苦手な傾向
  • このような感覚運動レベルの問題は、神経障害性疼痛患者と類似している
  • 同定段階が感覚ー運動ループとしての自己を利用するのに対し、帰属段階は自伝的記憶によって定義される自己を資源として活用する
  • ASD 過去の想起を促した時、抽象的な想起はできても具体的なエピソードは想起しにくい過剰一般化と呼ばれる傾向が報告されている
  • ASDでは、感覚ー運動ループだけでなく自伝的記憶としての自己もまた十分に統合されておらず、それを裏づけるようにASD児では、自伝的記憶の神経基盤とみなされているdefault-mode network(DMN)内部の機能的なまとまりが弱く、それが重症度と相関していることが明らかになっている
  • このように概念的自己に内閉した反芻の締め付けるような痛みと、エピソード記憶の大量フラッシュバックによる衝撃の痛みがともに、日々、筆者を苦しめていた。こうした状況は、概念的自己とエピソード記憶の統合不全の問題として、ある程度説明可能かもしれない

痛みの不快感を緩和させるアプローチ

平林万紀彦 痛みの不快感を緩和させるアプローチ Spinal Surgery 2016;30(3):293-295

  • 痛みは、知覚的、感情的、また認知的に脳で統合され、それらは相互に作用し、われわれは痛みを常に内的に体験する。
  • 慢性痛に苦悩する患者は、痛み知覚の増強だけでなく、痛みに不快感がストレスになりやすい
  • 本稿のポイント
    • 痛みに苦悩する患者は、「痛みが強い」だけでなく「痛みが不快で仕方ない」ので苦しむ
    • 「知覚」「意識」「感情」「思考」の問題が、“痛みの不快感”を強め、痛みが耐え難いものになる
    • "痛みの不快感"の緩和が「耐え難い痛み」を「平気な痛み」に転換する上で鍵になる
  • 痛み診療では、神経や筋骨格系の評価が重視されるのと同様に、痛みの不快感を知るには精神状態を司る脳機能について意識、感情、思考などの症候に基づき所見を得ることが欠かせない
  • 1. 意識の障害 抑制が効かず訴えが強まる
    • 痛い診療においては、鎮静薬の影響でも起き得る「ややぼんやり」した、「たまにちょっと的外れの応答」をするなどごく軽度の意識障害も把握することが重要である
  • 2. 感情の障害 痛みに過敏になる
    • 痛みと抑うつはどちらも病態そのものがストレスであり、相互に発展して不快感が増していく
  • 3. 思考の障害 痛いと奮闘して疲労する
    • 低知能では、痛みという自分に生じた問題を解決する難しさがストレスになり、混乱して無力感を生じやすい。
    • 痛みにとらわれてしまい簡単な決断にも時間がかかったり、今すぐ痛みを治すのは難しいとわかっていながらも、痛みから逃れようと反芻したり、「この痛みさえなければなんでもできる」といった根拠のない確信を持ったりする現実に適応しにくい思考パターンが痛みの違和感を強め、知らず知らずのうちに痛みを過剰に敵視させる
  • 慢性痛に併存しやすい精神疾患
    • うつ病 痛みと共通した脳機能
    • 身体症状症(持続性身体表現性疼痛障害)  痛みは神経質を強化する
    • 不眠症障害
  • 多くの患者は痛みの原因は身体にあると考えており、痛みに訴えが強いと精神症状が見逃されやすいため注意を要する
  • プライマリケアでも、「いかに痛みをこじらせないようにするか」あるいは「こじれたときに対応を疎かにしないことが重要になる
  • 痛みの治療の目的は、我慢し難い痛みによる障害からの回復を目指す必要がある。
  • ここで注意したいのは、痛みの強さが治療前の半分になったら生活の質も半分は回復しているという直線的な関連性はないことである
  • 実際、患者は痛みの強さの変化にyろ、どれだけ過ごしやすくなったかで回復の度合いを判断するもので、患者が望む生活ができるようになると痛みの強さは変化がなくてもさほど気にならなくなることも多い
  • 痛みの訴えが多いと多剤併用になりがちだが、過鎮静が痛みの不快感をさらに強める恐れがあることはしっておきたいところで、薬物療法も痛み知覚強度だけでなく、痛みの不快感に注目して薬剤選択を行うかどうかがADL改善にも寄与している
  • 医療者としては、失望しながらもおれまで痛みとよく奮闘してきたことを称えた上で、提供できる医療を謙虚に提案していくことが、治療を継続していく上でも役立つ
  • 要点としては、まずは患者に自分の痛みをよく観察してもらう。そうすると、痛みはきままに変化していくことに気づくが、この思うようにならない痛みを今すぐコントロールしようと頑張り過ぎで、かえって苦しさが増している事実を明確にしていく
  • 次に、この苦しい悪循環から抜け出すために、つい目が向きがちな痛みはそのままにしておいて、本来目をむけるべき身近な生活にゆっくり手を付けていくよう方向転換を促す
  • さらに、社会復帰に向けた取り組みとして、実現の可能性がある目的に向かって、痛みがあっても今できることを患者から引き出してあげて、そこに神経質という患者の強みを発揮するように促すと、患者も前に進む力が湧いてくる。
  • その結果、痛みがあっても耐え難いものから、さほど困るものでもないという印象に変わっていく
  • 慢性痛には治療早期から単純に痛みの強さだけでなく、痛みがなぜ苦しくなっているのかという、痛みの不快感に着目して治療することが患者の回復を促す上で肝心なのである

「痛い!」対談

熊谷晋一郎、信田さよ子 「痛い!」対談 精神看護 2011;14(2): 73-80

  • そろっていえるのは、安全な場所に移動してから痛むっていうこと
  • 無理をするなとか、もう少し様子をみましょうって、すごい言葉ですよね。よく医者はいうんですけど、こんな地獄の言葉ないですよね。どうすれば様子をみることになるんだか。
  • 痛みがつづくと、自分のなかのボディイメージも変わる
  • 全身を神経逆立てるようにして、痛みを避けるように生きてきて、ほっと安心したときから痛みがでてくる。それって、自分が安全で安心できる状態にやっと今居るっていうことの、最低限の証じゃないかなって思うんです
  • もう殴られてなくて、骨折も構造としては完全に回復しているのにもかかわらず、まだ痛いという状態がどうもあるらしい。それを慢性疼痛とよんでいます。なぜそんなことが起こるかっていうと、どうもその記憶が残っているのではないか、痛みの記憶が中枢神経に刻み込まれてしまっているのではないかと今のところいわれています。つまり「痛みの記憶」というものが、どうも慢性疼痛のメカニズムではないかと言われている
  • 「悼み」も「傷み」も「痛み」も同じ
  • 痛いっていう感覚を得たら、次の段階で「なんで痛いんだろう」と理由を考えますよね。つまり理由を探そうとする。その痛みに対する何らかの説明を欲している。怖いのは、なんで痛いかよくわからないっていうことです。このままどうなってしまうんだろう、っていうのが一番心配だし怖い。セカンドオピニオンを繰り返し求めるのも、もちろん治してほしい気持ちもありますが、それと同時に、「何が私に起きてるんですか」と、意味や理由を欲しているようなところがやはりありますね。
  • 少なくとも構造的な理由だったら言葉程度では変わらないと思っていたのに、その一言で消えてしまうということはきっと構造的なハードの問題ではなくて、もうちょっとソフトな側の問題の痛みだったんだろうなと
  • やっぱり信仰の手前にあって不確実性を減らしてくれる何かって言った時に、ひとつはやっぱり知識の「知」じゃないかって思っていて。

慢性痛の当事者研究

岡本さゆり 慢性痛の当事者研究 Locomotive Pain Frontier 2017;6(2):86-69

  • 当事者研究における外在化の手法は慢性痛を軽減させる一つの手立てとなる可能性があり、応用性が高いと考えられる
  • 慢性痛の当事者研究は自らの身体の変容を含めた自己の再組織化である
  • まず「本当に自分の身体に痛みがあるのかどうかを疑ってみる」ことから始め、次に「痛みをつかんで話さない自分自身に気づく」段階を経て、「痛みに苦しむかわいそうな自分を突き放す」ことが可能となり、自分と痛みの間に距離ができた。
  • つまり、痛みによる「苦痛」を単に「痛み」として受け入れることに成功すると、痛みはその存在感を失い、痛みそのものが減少したのである
  • この一連の流れは痛みと自分を客観化することであり、当事者研究の外在化の手法と通底している
  • かつて筆者がそうであったように、慢性痛患者の多くが、自分の痛みは器質的なものであるという信念に固執し、痛みを増幅させている心理的側面には触れたがらない傾向が強い。
  • 筆者の慢性痛改善プロセスは、足りないものを埋めるのでなく、歪んだ試行を認知によって修正することでもなかった
  • 「間違った考えをやめましょう」と思っている間は、その考えに囚われているのであるから、慢性痛のあるなしにかかわらず、その状態から抜け出すことは誰にとっても至難の業である
  • 慢性痛を抱える人は大なり小なり痛みにハイジャックされ、四六時中痛みが頭から離れない
  • その支配が自分自身で作り出したものであることをすっかり忘れ、痛みという異物が勝手に自分を支配していると思いこんでいる場合が多い。
  • 「痛みという異物に支配された自分」は本当の自分ではないため、排除しなければならず、いつまでも痛みを敵対視してしまう。
  • 「これ(痛み)さえなければ」「これ(痛み)があると何もできない」「どうせ痛みなんかとれない」「どうせ何をやってもダメだ」など、痛みに対する無力感は底なし沼の様相を呈する
  • これらの思考傾向がない人は痛みが慢性化しないと考えるのが現実的なのかもしれない
  • 自己批判なんて、毎日やっているよ。痛みが続くのはきっと自分がダメなところがあるからだとうすうす思っているからね。だが、自己批判こそが思考の歪みではないのか。自己批判ではなく、自分への信頼感を取り戻したいとねがっているのだ。自己批判を共用されるのではなく、痛みがあってもなお生き続けていることをまずは認めてもらえないだろうか。そこから自分への信頼感と他者への信頼感が生まれるのではないか。」と
  • 他方、「自分が治すという気持ちがないと慢性痛は治りません」という”正しさ”が、痛む本人を追い詰めてはいないだろうか
  • 当事者同士の何気ない会話がきっかけになり、「んっ?あの人もそうなのか。それなら自分も何かやってみようか」というような「自分が自分で自分を治す」自覚がおぼろげにでるまで、時間をかけて醸成していくことが当事者研究の醍醐味ではないかと思う
  • 丸田 a)痛みの精神医学的側面は、痛みと共存する症状として語られるべきである。b)痛みの原因として精神科疾患を論じる時には、治療が不成功に終わる例が多い
  • Schwarzは「慢性痛治療のミッシングリンクは地域に根ざした学際的チームの一翼を担えそうなピアコンサルタントかも知れない」と述べているが、慢性痛治療のパズルを埋める最後のピースはピアサポートなのだろうか。